0、はじめに
本展はその日のうちに当日の日付を描く河原温作「デイトペインティング」の豊田市美術館所蔵作品が1971年に制作されてから、2021年で50年経つという節目にこの半世紀を見つめる「いまここ」、すなわち「絶対現在」をコレクションを通じて捉える試みである。展示室全体は部屋ごとに「問い」、「歴史/幽霊」、「日常」、「過去/未来」、「海/鏡」、「瞑想/庭」の6つの小テーマに分けられており、河原作品は「過去/未来」に配されているため、そこを起点として、本展は見ることができる。本レビューでは鑑賞した順に沿って振り返ってみたい。
1、問い
Q isのあとに穴の開いた白い球体が置かれている。ジェームズ・リー・バイヤーズ《球形の本(“Q is Point”)》は一つ目の妖怪が目玉はくり抜かれているにもかかわらず、残る暗い虚空からこちらをじっと眺めているように見える。QというのはQusestion=問いのことで、それは空洞、つまり無であるということを意味している。「デイトペインティング」にひきつけて考えてみれば、ここで問いとして想定すべきは、私とは何者か?という自己問答だろうか。問いへの答えは円を描いた無の空間である。時間はそこに存在していない。ただ、いまそれを問うた私=あなただけがいる。
2.歴史/幽霊
東西冷戦下に撮り貯めていた写真を2枚重ねて現像したボリス・ミハイロフ。第二次世界大戦前に国外に建てられた鳥居の現在の姿を撮った下道基行の写真作品。どちらともにかつて政治的に宗教的に分断されていたものが、それが「終わり」、「融合」された時間からみると、人々が分断時に抱えていたシリアスさは消え、(実際に憩いの場所になることなどによって)視覚的な面白さに転じることを伝えている。ただし、この分断と融合は別の不安へも通じているように映る。ミハイロフの3枚あるうちの最後の写真に着目すれば、本作には少女が映っているが、男性器らしきものが見える。近づくと、それが少女の指が太ももの横から突き出ているだけのことだと分かる。思わせぶりにも画面の中央には男性器を模したような風船/ゴムが二つ浮かんでいる。男女という分断線を過去のものとして融合させるときに必然的に生じる性なるものの揺れがこの写真には仄めかされているのだ。この存在の確定されなさは、写真に映る女の子と連続する形で配されているライアン・ガンダーの《おかあさんに心配しないでといって》において主題化する。自分の娘がおばけごっこをする様子を立体化した本作では自分の娘の存在の不安定がチャーミングにも提示されているからだ。よく知っているはずのわが娘らしき存在はシーツを被って姿は見えず、しかも時が経てば娘は別人のように成長してしまう。子育てとは不確かさとのコミュニケ―ションそのものなのである。だからこそ親は過剰に子供の写真をとり、育児日記をつけることで、こどもの存在の痕跡を残そうとする。分断と融合から生まれる楽し気な雰囲気の漂う多幸感とアイデンティティの不安定さ。これらがまさにガンダーが作品化したように、こどものおばけ遊びに似たいたずら心ととも提示される。
3、日常
自己の存在根拠を刻印するために自己や共同体の痕跡がテーマとして扱われる。ときに身体への負荷を伴う展示作品たちはミニマルな印象を与えつつも、作家たちを表現に駆り立てる。その根底には、自己の存在証明のような差し迫った焦りのようなものが秘められている。ローマン・オパルカは生きている日数の間、数字を描き続け、ダニエル・スベーリは見知った仲間との食事の痕跡を作品化している。またイブ・クラインの私の存在を私の「色」という普遍的な形でもっともミニマルに提示した作品といえる。日常とは自己の痕跡の刻印の作業にほかならないのだ。我々は作家たちの作家というアイデンティティとともに有限の時間を生きる人間としての姿をここで目撃することになる。
4、過去/未来
四方が日付で覆われている。河原温の「デイトペインティング」である。河原まで至ると、自己の痕跡であったはずの日付はもはやそれを通して認識可能な対象が作家自身の枠をはるかにこえて、形而上的な存在者に達している。あるいは、そうした存在に河原自身が《作家》という歴史的に形成されてきた特異なアイデンティティを装おうとしていると考えていいだろう。でなければ、「デイトペインティング」に囲まれる形で展示台に積み重ねられた《百万年-過去》、《百万年-未来》を作ることなどできないはずだ。この二作品は各ページに500年ずつ100万年文の年号がタイプされただけの本である。途方もない時間の記録だけがただ無限のごとく、しかし本という物化されることで有限に示されている。このとき、この時間の聖書ともいうべき作品を制作する主体はひとりの作家という枠をはるかにこえてでてしまっている、と我々は自然と想像するだろう。絶対現在を記録しうる、形而上的な存在者としての作家。この作家の在り方は本展のステイトメントに引用されている、鈴木大拙の「絶対の時間」、「空」の考えに通じている。だからこそ、警戒しなければならない。これが、ホー・ツーニェンが同時期に喜楽亭をインスタレーション化した《旅館アポリア》において京都学派の戦争協力を扱うなかで取り上げた問題の中心であるのだから。絶対無にも等しい、過去と未来をも備える純粋なる現在は、何にでもなりうる。そのために善か悪か、倫理的か非倫理的かの問いの手前に存在する主体と呼ぶべきなのである。つまり、脱倫理的な存在であると。だからこそ、これには最大限の崇高さを感じるとともに注意を払わなければならない。絶対の時間としての無に吸い込まれてしまわないように。
5、海/鏡
「デイトペインティング」に囲まれた展示室から出て、すこし間延びした、それゆえに自己反省へと鑑賞者を誘う時間を担保する通路を歩くと、影と鏡が目の前に現れる。ここで明確に作品を見る、我々=あなたの存在の輪郭を意識させられる。高松次郎の《赤ん坊の影 NO. 122》、ミケランジェロ・ピストレット《窃視者(M・ピストレットとV・ピサーニ)》は一方は鑑賞者の影、他方は文字通りの目に見える姿かたちを通して、あなたがいる/いたことの痕跡を作品との出会いという一回的な経験のなかに現前させる。見返ると、いくつかの写真作品が展示されている。ソフィ・カルが盲目の人々に美とは何か?を問うた、「盲目の人々」シリーズは高松、ミケランジェロ・ピストレットが前提としていた可視的な条件を否定し、盲目であるときの自己の痕跡の残し方を提示している。あくまでも写真という暴力的な可視化装置を用いることによって。つづく、杉本博司が劇場で流れる映画上映時間分の光を長時間露光で撮った写真は盲目であるか否かに関係なく、あらゆる人間が捉えることのできない時間の有した光を我々に見せる。なぜそれを見ることができるのか、と問えば、この光が人間にではなく、カメラアイ=機械によってはじめて目撃されているからである。人間は通常の意味でのその時々の現在のシーンを見ることはできる。けれど、杉本が決定的瞬間をとらえることのできるカメラで切り取る現在とは、映画の流れる時間であり、そのなかで描かれる人間あるいは世界のはじまりとおわりの時間が織り込まれた現在なのである。ソフィ・カル、杉本の作品によって、影や鏡といった自己の輪郭を確かめるための古典的な方法から、その方法の条件、すなわち可視性を問題の焦点に据えていくのだ。実際、あたかもそれに合わせるような形で杉本が世界のはじまりの7日間を映し出したと考える「海景」シリーズもまた展示されることで、その条件への問いは世界の起源を捉える眼差しまで遡られることになる。
6、瞑想/庭
ダンスフロアのようなひらけた空間がある。壁には李禹煥の大型のペインティング、床にはルーチェ・フォンタナ、ジュゼッぺ・ペノーネの彫刻が置かれている。李の筆遣いは作者の躍動的な身体の動きを想像させて、それをもとにトレースすることで、いまここにある鑑賞者の身体に「現在」という時制を呼び起こさせる。絵画の基底材であるキャンバスを、イメージを描く舞台ではなく、パフォーマンスの場へと変えて見せたフォンタナとペノーネの自然の樹木の持つ可塑性を思わせる彫刻たちは、李の動きに呼応するように、モノ自体が密やかなダンスを演じているように見える。そして、それを見る我々もあるムーブとリズムを体感することになる。杉本の「海景」シリーズで一度、起源にまで遡ってしまった時間は、その時点で十分に瞑想的な効果を果たしていた。それがダンスフロア(庭と言ってもいいでしょう)においては、永遠の過去から時間を早送りして、いまの我々の身体に流れる血や肉へと意識を向けさせる。瞑想から再び活動へとこの空間は開かれているのだ。
7、おわりに
もう一度、フォンタナの彫刻と形態的な類似を見せるジェームズ・リー・バイヤーズのあの球体の作品に再び目を向けてみよう。はじめに私とは何者か?という自己問答への答えは無なのであると書いた。しかし、穴はフォンタナの作品も同様に実際には奥が閉じられた窪みである。したがって、それは本当の無などではありえず、ある条件のもとに常に存在するものと言える。人間の能力の限界や外的な遮蔽物や障害物の介入のせいで、無になりきることなど不可能に近い試みなのだ。たしかに脱倫理的な概念である、絶対現在や絶対無は容易に純粋な空洞や穴として想像され、実質を見れば、ときに善から悪へと転換する場を提供する役割を果たす。けれども、その無は何かによって遮蔽され、媒i介されることによって存在を支えられ、現在のなかに刻印されることも現実なのである。両者ともに写真というメディアを用いたソフィ・カルと杉本博司が問題としていた盲目性や時間性とは、そうした条件に含まれるものだろう。いや、可視的であることの条件を問うのであれば、我々はあの太陽について考えてみたりするといいのかもしれない。
会場・会期
豊田市美術館 「絶対現在」展
2021年10月23日から2022年1月23日
・執筆者プロフィール
南島興
1994年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(西洋美術史)。これぽーと主宰。美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。旅する批評誌「LOCUST」編集部。https://twitter.com/muik99
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