大澤夏美さんは北海道大学の修士課程で博物館経営論の一環としてミュージアムショップについて研究されていた方です。美術館だけでなく、全国の自然史博物館や水族館などあらゆるミュージアムのグッズを収集し、アーカイブし、ブログにまとめる活動を積極的に行われています。書籍出版も準備中とのことです。今回はそんな大澤さんにミュージアムグッズ初心者の南島興がグッズ道を教わります。楽しい対話編です。(南島)
*サムネイル画像は対談中に登場する株式会社金入の商品。仙台七夕まつりで飾られる「幸運の七つ飾り」を題材とした、和紙のお香。飾りを竹からちぎっても使えるそう。
南島 お久しぶりです。第1回目から一か月以上空いてしまいました。まずは近況からお聞きできますか?
大澤 この3年間、私は北海道大学学芸員リカレント教育プログラムというものを受講していました。今年が最終年だったので、その成果として「ミュージアムグッズサミット」というオンラインイベントを全3回開催しました。
南 へえ。どんな意図があったんですか?
大 メディアやSNSで語られるミュージアムグッズって、どうしても首都圏の大型企画展のものが中心になりがちですよね。地方の博物館やそこまで規模が大きくない博物館にとっては、必ずしも参考になるわけではないんです。なので、もっと地方博物館のミュージアムグッズやミュージアムショップの担い手同士が、お互いの知見をシェアできる舞台が欲しいなと思って、今回のサミットを開きました。
南 どのような方が参加されてるんですか?
大 学芸員さん、ミュージアムショップの事業者さん、スタッフさん、買い手の方などがいらっしゃいました。ミュージアムショップに作品を卸す作家さんも見に来てくださいましたね。ミュージアムショップ、ミュージアムグッズにまつわる方々ってすごく多様なんだなと改めて実感しました。よく「ミュージアムグッズって誰が作っているんですか?」と聞かれるんですが、それって本当に様々なんですよね。学芸員さんが作るときもあれば、委託された事業者さんだったり、広報も担っているスタッフさんだったり、友の会だったり…。その多様性が見えたのも面白かったです。
南 なるほど。視聴者の方はどれぐらい集まったんですか?
大 各回80人近くは来てくださいましたね。
南 80人!ちょっとした学会じゃないですか。ミュージアムグッズ学会。目的としては大都市圏の企画展のミュージアムグッズ作りとは別のモデルの構築を目指したり、情報を共有し合う会ですよね。
大 そうです。今回の新型コロナウイルスのこともあって、首都圏のごく一部の企画展の、SNSでグッズをバズらせて集客を募って…というやり方はもう難しいと思うんですよね。そうなると、ミュージアムショップやミュージアムグッズの在り方ってもっと多様になる必要性が出てきます。また、そこから深めて「そもそもミュージアムショップやミュージアムグッズって何で大事なんだっけ?」という、本質的な話をしてみたかったんですよね。
南 これまでもターゲティングも含めて、それと別のモデルはありえたのかもしれないけど、コロナ禍では半強制的にそれを考えざるを得ない状況になったことをポジティブに捉えていこうということですね。
大 まさにそうですね。じゃあみんなどういうことをやっているんだろうね、ということを考えて、それで3回ゲストを呼びました。第一回が博物館の専門誌『ミュゼ』の編集長の山下治子さん。元々この雑誌は、ミュージアムショップ/グッズの専門誌だったんです。ミュージアムショップやミュージアムグッズがまだ日本に紹介され始めたころから、その教育的な要素や役割を提唱してきた雑誌なんですよね。
南 すごい、先見的ですね。
大 日本のミュージアムグッズのパイオニアですね。第二回目が角川武蔵野ミュージアムのミュージアムショップや八戸のはっちとか、仙台のメディアテークなどのショップを手がけている、株式会社金入 代表取締役社長の金入健雄さん。地域の文化というものをどうショップで表現するかということに取り組んでいらっしゃいます。そして、第三回目が大阪市立自然史博物館のミュージアムショップを運営していらっしゃる、認定NPO法人大阪自然史センターの事務局長である川上和歌子さん。今回の新型コロナウィルスの影響を受けて、対面型のイベントが中止になり、ミュージアムショップも開けなくなって、経営的に厳しくなった中で、どのような対策をしたのかというお話をしてもらいました。
南 とても充実していますね。先日、オープン前の角川武蔵野ミュージアムを見にいきましたが、日本の伝統とクールジャパンが絶妙なバランスで成り立っている不思議な空間でした。東所沢の閑静な住宅街に急に現れて、異様な光景ではあるんだけど、でも全く変じゃない感じです。まさに隈研吾の言葉でいえば、「調整力」が際立っている。ただ箱物を作ったというわけではなく、ちゃんと地域に馴染んだ文化拠点になるように目指したことが建築からも伝わってきました。
大 なんだそれ!!すごいなぁ!!
南 似たもので言うと、仙台メディアテークは純粋な美術館ではない「アートセンター」と言う形で、市民と文化の触れ合う場になっていると思います。また、僕は「LOCSUT」という旅行雑誌にも参加してるんですけど、前の号の特集が岐阜特集でして、そこで出遭ったのが伊東豊雄の設計したメディアコスモスで、こちらも素晴らしかったです。
大 えー、行ったことない!!
南 なにが素晴らしいかというと、建築が凄いと言うのは見てぱっとわかると思うんですけども、日本の市町村とかの行政がやっている貸しホールは、たしか稼働率が平均して50%を切ってるんですよね。それは予約がしにくいやオンラインに対応していないとか色んな理由がありますが、結局、人が集まりにくい場所になっています。そんななかで、岐阜のメディアコスモスは、まず岐阜市の人口が約40万人のところ、年間の利用者数が100万人を超えています。かつ、貸しホール利用率が80%で、ギャラリーになると90%超えなんです。圧倒的。
大 えっ!それはすごい。
南 すごい稼働率なんですよ。ただ建築がおしゃれでいいよねって言うだけではなくて、利用率から見てもちゃんと使われているというのがわかる。そういう点では、ミュージアムグッズって言うと美術館の話になりがちですけど、それよりもメディアテークやメディアコスモス、角川武蔵野ミュージアムのようなアートセンターとの連携を考えると面白い気がします。
大 そうですね。先ほどお話ししたミュージアムグッズサミットの第二回のゲストの金入さんの話を思い出しました。金入さんはお店作りで心がけていることが、3つあるとおっしゃっておりました。一つ目は、職人さんとチームとしての一体感を作ること。どうしてもミュージアムグッズやミュージアムショップは、セレクトショップ的な要素があると思うんですけど、それは選ぶものと選ばれるものの間に主従関係がありますよね。でも、金入さんのお店の作り方は、そうではなくて、作り手の良い時も悪い時も、常に支え合えるお店が良いと仰っていて、共感しました。2つ目が、小売や消費で地域を支えるのはすごく大事ということ。日本の年中行事とかを考えても、「物を売り買いする」ということ抜きしにしては文化って成り立たないという話をされていました。そして、3つ目が、どんなものを後世に残すのかと言う、地元の人自身が当事者意識を持つことが大事だということ。それは、震災を経てそういう思いを持ったと仰っていました。作る側・売る側だけでなく、買い手側もそういう当事者意識を持って買うという体験を提供できるお店でありたい、とお話しされていて。それはミュージアムショップとすごく相性いいだろうなと思いましたね。
南 それはとても重要な指摘ですね。過去10年は「芸術祭の時代」と言われりするほど、アートを社会に開くことが重要視された時代でした。そこで求められるのも、小売りという商品を介した文化の伝達ではないかと思います。ミュージアムショップは、まさにその意味では商品を通してアートを社会に開くための拠点と言えますね。しかも、展覧会は一回きりのものなので、他人とは交換できませんが、ミュージアムグッズは持ち帰れて、交換できるので、その開き方の規模は測り方によっては展覧会よりも大きいかもしれない。
大 ミュージアムショップやミュージアムグッズは、まだ付帯施設や物販だと思われているところが大きいんですけども、紐解いていくと、いま言ってきたような役割が担えると思うんですよね。例えば、首都圏が地方を、自分たちの地域をセレクトするという事に対する残酷さのようなものに気づいていないイベントやショップがあまりにも多くて。それがすごく辛いなと思う時があります。その話を金入さんにすると、自分たちのことは自分たちでやるべきだよね、と返答されました。小売というものが1つアプローチの手段として、自分たちの地域のことを自分たちが当事者意識を持ってやろうというもの。それが自分たちの文化を担うと言う事につながってくるよね、という話をしました。
南 それはもはやミュージアムグッズをこえて地方活性化とは一体何なのか、という話に繋がりますね。
大 本当に小売りの場面にそういう主従関係はすごい残酷に出るなと思いました。
南 選ぶ-選ばれる関係ですよね、
大 そうそう。自分たちの地域の文化に自らが価値が見出せなくなっている現状って、それはどうなんだ?という。それをミュージアムショップや小売りの現場から変えていきたいよね、というのが、金入さんの活動なんだと、私は解釈したんですよね。
南 難しいところですよね。
大 でも、博物館との相性はいいんじゃないかなと思っていて、
南 まさに文化財を持っていて、それを活かすのが仕事ですからね。
大 北海道の話をしちゃうと、なかなか展覧会で自分たちの文化をキャッチアップできなくなっている現状もあって、ミュージアムショップから何かできないか、というのがもっと広がればいいかなと思っています。
南 印象派やタレント作家の展覧会が地方に巡回して、人がたくさん来る。それはそれでひとつのモデルとして成立していると思いますが、これは一種の麻薬みたいなものですよね。カンフル剤に頼らざるを得ない状況になっているので、その状況事態が問題ではあるのだけど、それを打開するために、展覧会を変えるというのは大きな構造に含まれているのできっと難しい。とすると、ミュージアムショップは、もう少し小さい所からその打開を始められるのかもしれないですね。また今の話は、構造的に言うと、日本の文化戦略とも似ていると思いました。概ね、日本政府はクールジャパンと呼んで、フランスなどで展覧会を開催したりしているわけですけど、そこで作られている日本の美術の伝統や歴史というのは、フランスなどの対欧米を考えたときに受けのいい美術の貼り合わせであって、セルフ・オリエンタリズムなんですよね。日本はこう見られているから、それに応えていこうというリアクションとしての文化発信。だから、正直なところ、クールジャパンは自国の美術とは何で、歴史とは何かを自分たちで考えて発信しているものではないと思うんですよね。このセルフ・オリエンタリズムからどう抜け出すのか、あるいは、それをやりつつも自分の国や地域の文化を発見して、それなりにマネタイズし、文化的な足場を築くところまでいくのが課題です。そこで各地にある美術館のミュージアムショップがそうした拠点を担いうる可能性はありますね。
大 最近、金入さんのようなちょっと心ある事業主さんも出てきているので、期待したいところなんですけどね。
南 さっき挙げられた三つ目の買うことを通して当事者にするという話に関しては、その通りだと思いました。人は何かを買う行為は知ることに繋がっているので、自然と当事者になるということですよね。これを別の言い方でいってみると、最近、僕はこの話をよくするんですけど、アートって入門者はとても多いと思うんですよね。印象派展をすれば、人はたくさん来るし、森美術館の現代美術の展覧会にも、あいちトリエンナーレ並みに人が訪れています。首都圏でも地方でもカンフル剤のような展覧会をやれば人がたくさん来るという打算があるほど、アートは愛されているし、入門者は多いわけです。でも、アート側の人たちが入門者から一向にその人たちを育てようとしないという。
大 あるある!
南 一向に入門者から引き上げようとしないんですよね。入門したあとは、「はい、ここから先は専門領域なので!」と言って急に門を閉めるみたいな印象があります。永遠に入門させ続ける状況ですね。出版を見ても、毎月のように出版されるアート入門書、ビジネスに生かせるアート本が一方であり、他方では博士論文のような専門書が並び、二極化している。僕は、こういう入門しかさせない状況を「アフターケアなき入門地獄」と呼んでいるんです。
大 笑笑
南 美術界は人々に入門しかさせない地獄を生きさせているんですね。その入門したあとに何をすればいいのかを示してくれる取り組みや書籍が不足しているんですよね。それは中間層をつくるということです。話を戻すと、「当事者にする」というのは、この「中間層にする」という意味に近い気がしています。結局、いま入門者もたくさんいて、展覧会もたくさん人は来ているのだけど、常設展を見たときに、これは自分たちが担うべき文化なんだって思ってくれる人は残念ながら少ない。そこには入門者から一歩踏み出すステップアップは必要になるはずです。それは見るだけの鑑賞者をそれを担う主体に変えるというか、中間層にフックアップするということです。そのきっかけとして、売り買いされる「商品の力」が使えるのかもしれません。商品を通して、入門者が中間者になる。非当事者が当事者になると。どっちかというと、これまで僕は出版において中間書をどう作るか?という観点から考えていました。おそらくは、その文化ジャンルの豊かさと持続可能性は、入門者と専門家の数ではなく、中間層の多さによって決まるような気がしていて、その点に日本の美術界の脆弱性があるんじゃないかなとも思っています。炎上のリスクが高いというのも、その二極化の構造に起因しているんじゃないでしょうか。
大 なるほど。いまちょっと考えたのが、私も美術や美術館にはそういうイメージがあるんですけど、自然史系ってそうじゃないんですよね。地域の理科の先生にも有名な研究をされている方がいたり、地元のコレクターとか市井の研究者がいらっしゃるんですよ。そういう、中間層と専門家と入門者が合流する場所に博物館がなっているところもあります。美術にはそういう市井の研究者っていないんですか?
南 いなくはないですが、存在感が非常に薄いですね。いま言われた活動については小中学校の美術の教師が校外学習で美術館に生徒を連れていくということが近いと思いますが、実際それがどれくらい行われているのか、というと数は少ないでしょうね。対話型鑑賞など推し進めているとは思いますが、現状では美術館でそういう現場に遭遇することもほとんどありません。でも、もし市井の美術研究者、作家がいるとすれば、学校の先生がなりえると思いますが、彼らの能力がうまく活かせていないような気がします。
大 自然史系にはそういう事例があるんですよね。例えば、北海道大学総合博物館の「昆虫サロン」というイベントでは、研究者の方の講演に加え、文献や標本の交換タイムがあるんです。ああ、自然史系に学ぶことがまだいっぱいあるなと。専門家と中間層、入門者との距離が近くて、交流も活発だなと思います。
南 なるほど。それは教育といわずに教育ができちゃっているということなんでしょうね。教育と言わないけど、情報交換が専門家から入門者まで愉しくできてしまっている。
大 美術だったら、どういうことがあり得るかな。
南 美術で教育というと、どうしても専門家が入門者に「教える」というスタイルになってしまうんですよね。大学教授も学芸員も、基本的には教える-学ぶ関係をつくって話してしまう。でも、本当は教える-学ぶ関係ではない、別の関係性を作りたいんですよね。
大 私も専門ではないから分からないですけど、美術を「感覚」で見たい人たちとそうじゃなくて、学問なのできちんとお勉強してから行きましょう、みたいに二極化しているイメージがあります。
南 それはその通りだと思います。だからこそ、目で見て分かりやすいという点で、印象派がよく支持されるのだと思います。それは現代アートの展示でも似た状況はあって、ちょうどこの前まで開催していた東京都現代美術館の「オラファー・エリアソン」展もふんだんに光の演出があり、インスタ映えスポットも用意されていました。そのスポットの見逃しがないように出口には注意書きすらありました。ある光の組み合わせなので、人間だったらだれでも美しく感じますよね、というところまで鑑賞者のハードルを下げているんですよね。人種・文化に関係なく美しく思えるようになっている。もしかしたら、チンパンジーすら美しく思うかもしれない。だから、この「知覚原理主義」は、印象派展にもオラファー・エリアソン展にも共通する特徴だと思います。これがインスタ映えと相性がいいことは言うまでもありません。とはいえ、こうした風潮に対して、よく勉強してくださいという批判は理解できますが、さほど有効ではないと思います。インスタ映えの先に学びがないとは言い切れないからです。なので、もちろん歴史や文脈を知ることも大事なんですが、そこで一緒に考えるべきはインスタ映え的な知覚原理主義からどんな学びが生み出せるか、ということだと思います。さらに言えば、インスタ映えは、展覧会を持って帰る行為だと思うので、それってミュージアムグッズと似た特徴をもっているのではないでしょうか?展覧会の宣伝の代わりにもなりますし。
大 そうそう。ミュージアムショップもただかわいいものを売っているだけと言われたりします。でもまさにそんなの「言い切れない」んですよ。さっきの消費から広げるという話もまだまだ論じられてないだけかもしれませんし。そういう部分から私は逆襲したいなと思ってやっています。
南 うん。一番、大衆の欲望に付き合ってる場所がミュージアムショップであり、インスタグラムと言えますよね。森美の場合は、広報のSNS専門の方がいますけど。やっぱり、欲望と付き合わないと持続性ってないと思います。だから、その欲望を作り出すという意味においては、ミュージアムグッズというのは、馬鹿にされようがなんであれ、「我々は欲望と付き合ってるんですよ」と言えばいい。
大 人間の欲望を舐めない方がいいですよね
南 というより、欲望しかないというか。よく欲望と対比される言葉として意志が挙げられます。大抵は、欲望はなるべく抑えて自分の意志をしっかりと持って行動することが良いとされますし、責任ある人間であるみなされる条件だと思います。しかし、現実には人間は、多くの場合、欲望で動いているわけです。すべきではなく、したいで動いている。さっきの勉強してください派は意志=すべきの立場で、インスタ映え派はしたい=欲望の立場と整理してもいいかもしれません。この後者の方と向き合うことが、いま求められていると思います。期せずして、あいちトリエンナーレ2019のサブタイトルは「Taming your passion」、つまりあなたの理性ではなく、「情」を飼いならすことであったことも同時代性を感じます。
大 なるほど。
南 ですので、美術館と社会の接点にあるのが、欲望の方だとすれば、その欲望に付き合っているのが、ミュージアムショップであり、インスタグラムだと言えるのでしょうね。面倒くさい欲望と向き合う、というのが、抽象的にはなりますが、重要なことだと思います。
大 すごい。めっちゃいい。そうですね。欲望と付き合う。
南 そうですね。欲望というとネガティブに捉えられがちですが、でも否定しても仕方ないものです。人間とは欲望を捨てられない動物だと思うからです。だからこそ、先ほどのインスタ映えを通して、どう学びにつなげていくのか、という発想が必要になります。欲望を否定するのではなく、利用して学びましょう。これが正攻法なんじゃないかな。
大 さっきの標本や文献交換の話もそうですもんね。
南 はじまりは単なる欲望だけど、それが結果的に学びに繋がっちゃう。博物館であれば、自分の欲望を公開して、共有できると思ってあるからこそ、そういう人が集まってくるんでしょうね。それは幸せなことだと思います。
大 彼らは欲望を学びにつなげてますよね。
南 そうですね。いま思いましたけど、そうすると、美術館は意志の空間になっているんですね。欲望を規制してちゃんと美術に向き合わないといけない場所になっている。対して、博物館は欲望の空間になっている。なぜか欲望を垂れ流すことが許されている雰囲気が共有されている。少なくとも欲望を許容してくれる場所になっていますね。
大 なるほどね。美術って真面目だなって思います。別に博物館が不真面目なわけではないですが。でもそもそも博物館の歴史自体が、大航海時代の欲望や渇望から始まっていますしね。美術館が意志の空間というのはたしかに面白いかも。
南 ちょっとそこに欲望をスパイスとして入れていくときの、美術館の欲望の拠点としてのミュージアムショップは役割があるかもしれませんね。
大 ミュージアムショップでもっとたくさんの欲望のスパイスをいれていく。面白いですね。
南 まあ、炎上するリスクもありますけど。でも、炎上は悪いものじゃないと思いますよ。
大 そうですよね。もうちょっと議論のきっかけになればいいのになって思うんですけどね。
(つづく)
・執筆者
大澤夏美
北海道の大学でメディアデザインについて学ぶものの、卒業研究で博物館学に興味を持ち、元来の雑貨好きも講じて卒論はミュージアムグッズをテーマにしました。大学院でも博物館経営論の観点からミュージアムグッズを研究。現在も全国各地のミュージアムグッズを追い求めています。
南島興
1994年生まれ。東京藝術大学美術研究科博士課程在籍。20世紀美術史を研究。旅行誌を擬態する批評誌「ロカスト」編集部。ウェブ版美術手帖、アートコレクターズ、文春オンラインなどに寄稿。全国の美術館常設展レビュー企画「これぽーと」代表。
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