東京国立近代美術館で開催された展覧会「男性彫刻」は常設展ではなく「コレクションによる小企画」と銘打たれており、お察しの通りこの展評を公開する母体「これぽーと」の意図に正しく合致するものではない。それを理解した上で、ではなぜ「男性彫刻」の展評をここに書くのだろうか。これには筆者なりの理由がある。
コレクションによって成形される常設展は通常「広く公開すること」と「後に遺すこと」といった目的を根本に持ち、会場内に「常」に「設」えられている。形は違えど、これは屋外に設置されたモニュメント――つまり公共彫刻にも同じく言えることである。例えば駅前に建立された人体彫刻であったとして、仮にそれが偉人に類する人物の肖像であった場合、その姿を広く市井の人に共有し、偉人の記憶を後世に遺す。人の姿をしていない碑であったとしても同様に、「平和」や「友愛」などといったイデオロギーを広く公開し、そして永く遺すことを役割として背負っている。常設展にせよ公共彫刻にせよ、これらの役割にとって男性彫刻――いや〈男性彫刻性〉と言ってもいいかもしれない――とは、心強いパートナーであったと言えよう。本稿は「男性彫刻」の展評であると同時に〈男性彫刻性〉のレビューでもある。
「男性彫刻」の会場は、大きく三つのコーナーに分節されている。会場を入ってすぐのところに立ち並ぶ裸体像たちは「強い男」というテーマで括られているが、中でも目を引くのはそれら裸体像に平然と居並ぶ絵画、和田三造の《南風》(1907)だ。この作品は東京国立近代美術館のコレクション展構成の中でも頻繁に登場している常連で正に「常設」的作品の一つであるが、こうして男性彫刻の類の中で眺めると何かこれまでとは違った感情を筆者に抱かせる。《南風》の中央で直立する筋骨隆々の人物は明らかにこの画面における主役だが、この絵を観る鑑賞者は彼の裸体を見ると同時に、彼に(あるいは和田三造に)見せつけられもしているという状況によく注意する必要がある。シャツらしき布は掲げるものの胴体部には腰巻以外は何も身につけていない彼は、自信たっぷりの表情で胴体を正面に向けている。会場設置の個別の作品解説には、この半裸の男は明治日本の近代化の到達地点を表す擬人像という解釈が展開されているが、本展での「男性」という括りを思い出せば、彼はほとんどナルシストか露出狂のどちらか、いや両方である。《南風》から横には裸体像が連続して並ぶが、白井雨山《箭調べ》(1908)と朝倉文夫《山から来た男》(1909)は股間部分を取って付けたような葉っぱか布で隠し、あるいは北村西望《怒涛》(1915)は曖昧な造形に落ち着けて露出狂を回避しているだけで、落ち着いて考えてみれば彼らがなぜ裸なのかということもとんと意味不明なままだ。この白井・朝倉・北村の三名がどれも日本公共彫刻史において言い欠かすことのできない巨星であるということは大事なのだが、それを後回しにしてでも今ここで筆者が挙げておきたいのは同じく当館コレクション展の常連でもある、新海竹太郎の《ゆあみ》(1907)の存在である。
同年に発表されている《南風》に比較して、《ゆあみ》はいわば対極の存在である。ただ男女で性別が違うということで二元論的に収めたいわけではなく、異なるのはその態度、意志の違いだ。前者の人物のこれ見よがしの態度に対して後者《ゆあみ》の人物は布を前に持ってきており、成功こそしていないものの隠す動作が含まれている。晒したくないという意志が姿勢に表されているにも関わらず、当館コレクション展においてはほぼ常設化されてしまっているこの像の状況こそ、冒頭で示した〈男性彫刻性〉の実演そのものであると筆者は考える。
展示作品の話へ戻ろう。「強い男」のコーナーのあとは、「賢い男」と「弱い男」へと続く。「賢い男」のコーナーにおいて展示される肖像彫刻たちが着衣揃いであることに関しては、会場内で配布されている立派なパンフレットにて以下のように言及、解説されている。
「Q. なぜ裸ではないのか?――A. 受注制作ならなおのこと、正装、勲章、武装などで社会的地位を示す必要がありました。〔中略〕受注制作でない場合も、モデルが身内だったり仲間だったりしない限りは着衣像となるのが普通でした。たとえ彫刻といえど、匿名でない個人の裸をさらすことには、彫刻家にも社会にも抵抗があったと言えそうです。」
この解説通りにいけば、「男性彫刻」とはちょうどよい程度まで顕示しつつ、しかし尊厳は保守するという態度の間に存在していると言える。先に挙げた和田《南風》や北村《怒涛》らから滲み出る自我の誇りなどは、本コーナーでは平櫛田中の《鶴氅》(1942)の立ち姿に引き継がれていて、例えば体躯がすっぽり隠れてしまうほどに着込んだ岡倉天心像の量塊感はある意味で、《南風》の男性像が持つボディービルダーのような巨大な体躯の威信を衣服によって模倣しているとも受け取れてしまう。「この人を見よ」とも言わんばかりに立つ岡倉天心像は新海《ゆあみ》における婦女がした、尊厳を守らんとする態度の成功の例であり、その意味では彼ら「賢い男」もまた「強い男」のタイプBとも喩えられるのである。
そうなると問題は最後の「弱い男」だ。単純に考えれば「強い男」の対義となるこのコーナーのみ、壁に隔てられたより小さな空間の中に展開されており、キャプションや解説文には老人、悲哀、苦悩などの言葉が並べられている。ここの展示作品の一つ、中村不折《養身(長養)》(1915)は絵画であるが、同じく絵画《南風》の男性のあけっぴろげな態度に対しては逆で、腰には力なく布がかけられて、こちらからは背を向けた状態で座っている老齢の男性の姿が描かれる。もうお判りのことと思うが、ここに描かれた老人の姿も到底晒される状況を受け入れる態度では無く、それは《ゆあみ》のものと同質に思える。同室には他にも複数の老人像が展示されているが、そのどれもが「強い男」「賢い男」の活気に比して、物憂げな雰囲気を湛えているのが印象的だ。この部屋で異彩を放つのは橋本平八《幼児表情》(1931)や森田恒友《草上二童》(1923)といった童子の姿を写す作品である。身体的性別がはっきりしないこれら童子たちの姿を男性彫刻のラインとして鑑賞するのはいささか無理を強いているようにも思われるが、とはいえ「弱い男」のコーナーで加速した齢を若返らせ、再び「強い男」として再生させるスイッチングの効果を持つという意味で「強い男」たちの部屋との境界位置に展示された意図がわからなくもない。かくして「男性彫刻」の会場は一巡し、再び「強い男」のコーナーの入り口へと回帰する。
以上で見たように、本展が優れた作品理解によって紡がれていることは確かだ。そこに異論はなく、筆者も大いに楽しんだ。しかし「男性彫刻」だけでなく、〈男性彫刻性〉もが無批判なままに展示室に充満していることはなんとも歯痒い思いが残る。
この展示の枠組みを借りて論じるとすれば、〈男性彫刻性〉とは強く、賢いことである。恥じらいや後ろめたさを持たずに公衆の前に立ち現れ、あるいは立ち現れさせ、いつまでも若いままであろうとする男性器である。「広く公開すること」と「後に遺すこと」への使命感と自信、常設展とは常にこれらの信念を抱えているものなのだ。だとすれば常設展というものを殆ど抱えていない東京国立近代美術館こそが、「男性彫刻」と題されたこの企画こそが、常設展の性質の陰を正面から指摘することができたはずではないだろうか。どうして見せるのか、どうしても見せるのか。無邪気に特製シールなぞ販売している場合ではないだろう。おそらく本来その足掛かりになり得たのは「弱い男」たちであったが、本展においては残念ながら、彼らはまさに〈男性彫刻性〉によって晒し者とされたままその役目を終えている。
会場・会期
東京国立近代美術館「男性彫刻」展
2020年11月25日から2021年2月23日まで
執筆者
吉野俊太郎
1993年新潟県生まれ。2019年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。現在は同大学院美術研究科博士後期課程に在学中。専門は彫刻、研究テーマは「操演」。主に台座、人形(劇)論、奇術などを調査している。2019年8月より東京都小平市にて共有スペース「WALLA」を運営中。
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