新型コロナウイルスによる感染症拡大防止のため、2020年3月21日のリニューアルオープンが延期となった京都市京セラ美術館(以後京セラ美術館)が同年5月26日に待望の再開。予約期間を挟んで、6月2日から一般来場者の展覧会鑑賞が可能となった。
今回レビューするのは、前身となる京都市美術館が開館3年目となる1935年に開催された「本館所蔵品陳列」を再現した開館記念展『「京都の美術 250年の夢」最初の一歩:コレクションの原点』。最初のコレクションである所蔵作品47点は、そしてリニューアルされた美術館はどのように鑑賞者から受容されているのか?常設展と美術館、来場者の結びつきについて考える材料になればと思う。
会期中筆者は平日・休日問わず様々な時間帯に会場を訪れた。そこで目にした鑑賞者の様子や自身の発見から、この美術館における常設展と鑑賞者の関係について考察する。
まず第一に、昨今の状況を踏まえ、京セラ美術館では当面の間感染症拡大防止のため事前予約・定員制にした来場案内の切り替えやチケットの販売方法によって来場層に変化が生じていることについて共有しておきたい。リサーチ当時の6月下旬~7月上旬は、来館の前日までにweb又は電話での予約という条件付きで30分から最大1時間の展覧会鑑賞が可能になった(7月15日からは当日予約も可能となる)。予約制の導入によってふらっと寄り道で来たような偶発的に展覧会と出会う来場者より、展示を見ようというモチベーションがある状態で見に来た層が圧倒的に多いという状況が生まれている。
加えてチケットの販売方法についても触れたい。京セラ美術館で同時開催中の「杉本博司 瑠璃の浄土」「コレクションルーム:夏季」はチケット窓口がそれぞれ独立しており、入場毎にチケットを購入して鑑賞するシステムだ。これによって関東圏の大きな美術館でよく目にする「企画展の入場券で常設展が見れます」というような同館の展示間をハシゴする状況が起こりづらくなっている。
そのため、このレビューを書くにあたって筆者が会場で出会った来場者の大多数は「常設展を見たい」という意志を持って足を踏み入れた人達である。その点をご留意頂きたい。
今回どの調査日も1時間だけ会場に滞在し、その中で出会った来場者をカウントしている。1時間あたりの来場者数は平均すると休日約50名、平日約20名の入場者数だった。男女比は男性4割、女性6割といった様子で、カップルや夫婦、友人同士など2人組での来場が目立つ。年齢層はシニア層が多く、ウォッチした7割がそうだったと思う。それぞれ1割くらいの割合で20代頃までの若年層と30代~40代頃の層が確認された。中学生以下の鑑賞者は調査中一度も見かけなかった。
時間については最短で15分、最長で1時間作品を鑑賞しており、平均するとだいたい25分ほどで鑑賞を終えている。 そしてここからが本題だ。その中で鑑賞者たちは何を見ているのか。作品の何に反応しているのか振り返ってみたい。
(何を見ているのか、というのは足を止めた作品や注視する部分により推測した。また、複数人で来場していた場合は聞こえてきた会話の様子も判断の材料に加えている。)
何を見に美術館へやって来ているのか、そして何に注目しているのか。自分が確認した鑑賞形態をざっくり7つに分けて紹介する。全部の鑑賞者が1通りの方法で作品を見ているわけではなく、いくつか組み合わさっている場合もある。
①作品の背景を知ろうとする
作品に添えられたキャプションを交互に見比べ、作品の背景を知った上で鑑賞しようとする。順路通りきっちり見る人はこのタイプが多いかもしれない。作品を文脈的な観点から理解しようとする姿勢が垣間見える。
この中で更に2種類へ分類できるだろう。
(例)作品を見て、キャプションを確認した後再度作品に視線を戻す。(特に気になった作品にはこの行為を繰り返す)
⇒ほとんどの観賞者が行っている所作である。
(例)キャプションを先に見て、答え合わせをするように作品を見る。
⇒この場合作品自体を見る時間は僅かで、文章を読んでいる時間の方が長い。
②至近距離から作品内のモチーフを分析する
なにが描かれているのか確認したり、作品空間内がどのような環境なのか探ろうとしたり、描写力や表現力を堪能しようとする。具象的なモチーフが描かれた作品に多く見られる。
(例)中村大三郎「ピアノ」⇒ピアノを弾く少女の見つめる楽譜にどんな譜面が描かれているか確認して、何の曲を演奏しているのか確認しようとする。
(五代)清水六兵衛(六和)の「大礼仙果文花瓶」⇒陶器に掘り上げられた一見抽象的なオウムたちがどうデフォルメされているか分析する。
③作品から連想したものを話題に会話を展開する
同伴者のいる鑑賞者が、作品をコミュニケーションの素材にし、相手との歓談を楽しむ様子が見られる。
(例)プライベートな話題に寄せる
⇒大須賀力「横臥裸婦」や吉田叡示「寂」を見て、ポーズに言及する。
作品中で描かれた場所について言及し、会話を広げる。
(例)出品作家の関連話をする
⇒自身の身近に出品作家がいた話や、近辺に作家が住んでいた話、作家のアトリエの様子を語る人が現れていた。本展が公募展系の作家中心で構成されているためか、高齢者の鑑賞者から教え子や関係者と思われる来場者が何名か確認される。
④作品の技法に感心する
工芸作品や刺繍でできた岸本景春作品を見て、制作に掛けられた年数や技術の巧みさに惚れ惚れする様子が見られた。中にはオペラスコープを持ち込んで、細部まで詳細に観察している鑑賞者もいた。このような様子が見受けられる鑑賞者は30分以上滞在している場合が多い。
⑤自身の関心に触れる作品を探す
蝶のように会場内を遊歩し、気になった作品の前で数秒立ち止まる。立ち止まって見る時間はだいたい8秒がマックス。1人で鑑賞しにやって来た来場者に多く見られる。自分の好きな作風や、引っかかる表現を探して会場内を動き回っているような印象を受けた。15分もしないうちに会場を後にする鑑賞者が多い。
⑥様々な位置、距離から作品を見る
⑤の流し見から一転、更にじっくりと鑑賞したくなった者や気になった作品を堪能したくなった鑑賞者に確認される。視界に収まりきらない物理的に大きなサイズの絵画や彫刻にこういった反応が見られる。
⑦美術館内の建築的な魅力に浸る
作品を見るというより、美術館という場所に来るために来場している様子の鑑賞者。中間地点の休憩所スペースやお手洗いがある広間あたりまで来ると、歴史ある建築物の厳格な雰囲気に圧倒されている。確保された静寂を求めてやってきているのかもしれない。
今回取り上げた京セラ美術館の常設展で、展示を見る力加減(のめり込み具合だろうか)が、高すぎず低すぎない60%ほどのテンションで訪れている鑑賞者が多く目についた。意識に余剰が生まれるからこそ建物を慈しんだり、同伴者と歓談したり、自分が見るべきだと思った対象にギュっと集中して見ることができているように思う。常設展へ魂を揺さぶられに来るというより、メンテナンスをしに来ているような感じ。今まで、張り詰める緊張感や作品のスケール感に圧倒されるような展覧会を見に行くことが多かった筆者にとって、静かな余白のような時間を美術館で過ごしている人々の姿が新鮮に写った。
また、来場者の様子を観察していて印象的だったのは「出品作家の関連話」が幾度も聞こえてきたことだ。80%の遭遇率だったのだ。これは京都市美術館が画壇作家のような公募系団体の展示会場として幾度となく利用されてきたことで築かれてきた結びつきの強さを物語っている。
「本館所蔵品陳列」が開催された1935年に生まれた子供たちは現在85歳。その頃若者だった世代はもう少し上の世代だ。収蔵作家に師事していた作家やその関係者が鑑賞者層となっている可能性は十分にある。そしてこの建物自体に、開館から7年後駐留軍が敷地全体を接収したことによって大陳列室がバスケットボールのコートとなり、美術館の役割から解放されていた時期もある。このような過去を振り返ると、おのずとこの美術館に縁深く、来場できる層はリアルタイムで美術館の様子を見守ってきた現在のシニア層なのだという推測が浮かび上がった。
最後の展示室である「第五章 京都市美術館開館の記念(1928-)」では原型となった「本館所蔵品陳列」のカタログや、その後収蔵された作品の出品展覧会である「大礼記念今日と美術館展覧会」「第21回院展」「第15回帝都展」の記録を見ることができる。その印刷技術の進歩や作品の解像度の差を会場内で見比べると、作品が経年劣化した部分から80年以上に渡る時間の流れを実感できるだろう。
また、ここでは当時の評議委員会の議事録をもとに作成された大礼記念京都美術展と「本書所蔵品陳列」についての協議が公開されており、常設展をどのように扱っていくかについて当時の市長と京都系画壇の作家によって議論が何度も重ねられていることが分かった。市長がしっかりと専門家の意見を取り入れながら展覧会を作っていこうとする姿勢や、歯に衣着せぬ作家陣の率直な発言は常設展の未来について真摯に考えられ、美術館側の課題をクリアしながらよりいい作品を後世に遺していこうとする気概の感じられる内容であった。(個人的に作品よりもこの記録の方が主役なのでは?と思った)
その記録と展示作品群を合わせて鑑賞することで、生まれも育ちも京都府外で育った筆者でもこの展示の間に流れる時間の厚みを体感でき、退場のためチケットをカードリーダーに通す頃にはコレクションの未来に対する理想的な「夢」のバトンを昭和の開館から引き継いでいく美術館側からの意思表示を感じ取ることができた。
では、現在の私達が見ている作品がどう将来伝わっていくのか?美術館の構造を見るとその懸念に対するアンサーが見える。リニューアルされた東山キューブやザ・トライアングルがその役目を負い、現代アートの動向を記録する立場を担っていくのだろう。同時開催中の「コレクションルーム:夏季」を見れば、存命中の作家も数点入り混じる、若年層にも親しみ深いコレクションを鑑賞することができる。展示物の年代に偏りが無いよう、バランスの良く配分して再出発しようとする姿勢が伺える。このリサーチで目にしたシニア層のように、人と美術館を結びつける過程には何十年という時間の積み重ねが必要だという事実をひしひしと見せつけられた。
常設展として理想的な再出発のように見えるこの展覧会について、鑑賞するには冒頭でも述べたようにまず「展示を見るためのモチベーション」が要求されている。予約のハードルによってどれだけの人が美術館に行く選択肢を捨ててしまったのか、考えを巡らせたい。偶然美術館の近くに居合わせた人々も美術館に入場できるようなことは昨今の感染症の状況を考慮するとしばらくは実現に至らないだろう。休日に実施されている当日予約制の認知が広まったり、チケットの購入形態などが改善されていけばより多くの層が美術館に接点を持つことができるのではないだろうか。常設展として見ごたえがあっただけに、内容よりもそういった入場面でのハードルの高さによって会場への一歩を踏み出せなくなっている状態がもどかしく感じた。来館に至る順路の描かれ方が、現在の状況下では美術館と来場者の結びつきに深く影響を及ぼしている。
(2020年8月20日追加)
8月上旬ごろから地下鉄のホームや電車内など公共交通機関の至る所で、入場予約制への移行を知らせるポスターが張り出されていたのを確認した。会場内だけでなく来館までの道程にも順路を付け、気を配らなければいけない時期に入った事実を象徴づけているかのようだ。
京都市京セラ美術館開館記念展「京都の美術 250年の夢」
会期:2020年6月2日から9月6日まで
・執筆者
クニモチユリ
2020年 多摩美術大学 美術学部絵画学科版画専攻 卒業
同年 京都市立芸術大学 美術研究科修士課程 彫刻専攻 入学(在籍中)
モチーフを様々な媒体へ変換・再構成する過程で生まれたイメージの変容について取り扱った作品を制作している。
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