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DIC川村記念美術館:失われるロスコ・ルーム(三枡 ケイ)

執筆者の写真: これぽーとこれぽーと

田園風景に現れる長蛇の列という異様な光景


「夫も来ているんです!すぐ来ますから」


行列の先頭近くで、遅れてきた夫をなんとか割り込ませようと頑張る中年女性がいる。芸能人の握手会か百貨店の福袋かと言えばそうではない。ここは東京都心から電車で1時間。さらに最寄り駅から30分はかかる“辺境の美術館”だ。女性の背景には、芝生がきれいな庭園、その奥にはうっそうとした森が広がっている。順番争いが起こる行列とは似つかわしくないのどかな風景だ。


開館前から入口フェンス近くで座り込んで待っている人も。
開館前から入口フェンス近くで座り込んで待っている人も。
門が開くと、我先にと待っていた人たちが美術館へと向かった。
門が開くと、我先にと待っていた人たちが美術館へと向かった。

行列ができているのは千葉県の佐倉市にあるDIC川村記念美術館(以下、川村記念)。訪れた9月中旬の3連休初日にあたる土曜日。それでも普通なら行列など出来ようがない。しかし、この日は開館前から駐車場には車が何台も止まり、扉前には行列ができていた。


行列の理由は、2024年8月27日に運営母体のDIC株式会社が、2025年の1月下旬で川村記念を休館し、運営方法を抜本的に変更すると発表したからだ。この発表時点では、縮小やダウンサイジングを伴う移転、あるいは運営自体の中止など多様な方法が示されていた。ただ、結局のところ、休館は目に見えていた。


川村記念は、稀有な美術館だ。インクや樹脂の世界的メーカーDICが運営する“私立”である。DICの創業者一族が収集した美術品を中心にしたものがコレクションの礎になっている。当初は、二代目社長であり初代館長でもある川村勝巳氏がレンブラントやルノワールらの西洋美術に興味を持って収集を始め、その領域がアメリカの近現代へと発展した。企業で抱え込むよりは一般に公開すべきとの考えのもと、1990年にDICの研究所敷地内にオープンさせたのが川村記念のスタートだ。いわば創業家一族の壮大な趣味の延長なのだ。それゆえに、公立美術館にはない特色のある所蔵品のラインナップを誇る。ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコ、フランク・ステラなど1900年以降のアメリカで活躍したアーティストの所蔵作品群は世界的に見ても誇れる水準だ。また、この時代につながる重要な作家、例えばカンディンスキーやダダ、エルンストなども充実しており、一箇所で1900年以降のアートシーンの変遷を追える美術館としての役目は大きい。そんな“トガッた”美術館だからこそのファンが多く、冒頭のような行列ができる事態になった。


訪れた日、美術館周辺には休館を阻止しようとする人たちが設置した看板があちこちにあった。
訪れた日、美術館周辺には休館を阻止しようとする人たちが設置した看板があちこちにあった。

8月の第一報以降、報道は加熱し、存続を望む声から署名活動などにも発展。来場者が増えたことで、2025年3月末まで休館が延期された。しかし、2024年12月26日に、最終的に川村記念は「ダウンサイズ&リロケーション」がされることが決まり、存続への希望は断たれた。移転先は都内となり、運営方式は企業直轄ではなく、財団など公益性の高い母体によるものとすることが決まった。そして何より、所有美術品は4分の1まで減らされてしまうことが明言されている。


誰が美術館を殺したのか、ではなく“もう体験できなくなる”ことが重要


その後の報道は、閉館を惜しむ一方で、“なぜ閉館に追い込まれたのか?”という理由探し、犯人探しの様相を呈していった。報道からの質問に答えるために出したであろうDICのプレスリリースを見ると、所蔵点数やアートの簿価ベースでの資産価値など、カネという視点での解答がなされていた。裏読みをすれば、報道機関の関心は美術館がどのくらいの赤字を出していて、アートを売却すればどの程度の利益が出るかだということがわかる。


確かに、川村記念という美術館の運営が行き詰まった理由を探るのは大事だ。ある学芸員は「閉館が決まる前に、もっと自治体と連携できれば状況が変わったかもしれない」と悔やむ。「せめて都内からのアクセスを改善する方策が取れていれば」と言った声もある。問題の所在を掘り下げることで、川村記念のような私立の大型美術館を続けていく有効な方法を模索するのも大事だろう。


しかし、もっと大事なことがある。それは、もう今の川村記念という形態は終わるということだ。広大な芝生、鳥が羽を休める泉、“巨城”として存在する美術館。作品の本質を引き出すことに心を砕き、そのために作られた展示室。そして、その空間におけるアート体験。すべて失われてしまうのだ。


だからこそ、失われてしまう前に、川村記念でのアート体験をまとめ、残しておくことが必要だと考えた。敷地面積3万平米、所蔵点数700点以上を誇る美術館だ。さすがにすべてに触れるのは難しい。川村記念の白眉である「ロスコ・ルーム」を巡るレポートにしたい。


川村記念の所蔵アーティストで、ただ一人“専用展示室”が与えられたマーク・ロスコ


マーク・ロスコ、そして彼の作品展示室である「ロスコ・ルーム」について少し説明しておこう。ロスコは1906年にロシアで生まれ、その後アメリカに渡ったユダヤ系移民だ。もともとはイェール大学で法律家を目指す秀才だったが、学費が尽きて大学を中退。その後、ニューヨークへ移り、アート・スチューデンツ・リーグに携わる。マックス・ウェーバーの講義に参加し、ミルトン・エイブリーに師事した。当初は具象絵画を残していたが、中期以降は画面の中から“カタチ”が消失していく。「マルチフォーム」と呼ばれる、多様な形状の色がぐにゃぐにゃと混ざり合い、まるで細胞分裂の途中を描いたような作品が生まれた。そして1950年以降、画面から明確な形が消失。画面を縦に2、3分割し、境界が曖昧な四角形“のような”形で塗り分けられた「ロスコ様式」が誕生する。曖昧な境界の四角形で構成された作品は、その特徴をとらえ「カラーフィールド・ペインティング」とも呼ばれる。ロスコやジャクソン・ポロックなど、アメリカにおける抽象表現主義のアーティストたちによる画面内に明確なカタチのない絵画は、当時のアートシーンで受け入れられ多数の作品を残した。


川村記念で鑑賞できるのは、ロスコが自身の様式を確立した1959年に描かれた「シーグラム壁画」の7点だ。縦3メートル弱、横5メートル弱にも及ぶ大型作品が複数含まれている。ロスコ様式として、いわば“脂の乗った時期”の作品だ。その後、ロスコの晩年にあたる1968年以降は、画面から色すら消失し「ダーク・ペインティング」と称される作品を残す。一連の作品を残し、1970年に自殺によって自らの生涯に幕を閉じた。


もう少しシーグラム壁画について補足しておこう。この作品を手掛けた当時、ロスコは1点の作品というよりは、自身の作品が配置された“場における鑑賞者の体験”を重視していた。例えば、ギャラリーで個展を開催する際に、絵画の配置位置や枚数にまで注意を払っていた。他のアーティストの作品と並べられるのを嫌う言葉を残していたりもする。


そうした場への意識が強まる中で生まれたのがシーグラム壁画だ。もともとニューヨークのマンハッタンにあるシーグラムビルの入居するレストランに設置するために制作されたもの。制作のために、レストランと同程度の大きさのスタジオを借り、そこで制作活動を行うほど熱心に取り組んだ作品だった。当初の計画では数点の展示予定だったのだが、試行錯誤を繰り返したロスコはレストランのために数十にも及ぶ作品を残している。しかし、そのレストランに作品が飾られることはなかった。完成したレストランを見たロスコが、その雰囲気を気に入らず、作品を売り渡すことを止めてしまったのだ。


ロスコの没後、時を経てシーグラム壁画が川村記念に渡ることになった。美術館が開館する直前の1989年だった。当時、作品を管理していたロスコの親族は、川村記念に作品を渡す際、2つの条件を提示している。


一つ、美術館の続く限り常設展示をすること。

一つ、作品は7点すべてを1つの専用空間で展示すること。


開館直前のドタバタを極めた時期、どこに何を展示するかなどほぼ決まっていた段階だったが川村記念はこの条件を快諾した。ロスコの“作品ではなく、作品を体験する場をつくる”という遺志を尊重したのだ。


そして、川村記念は7作品を1つの専用部屋で展示する「ロスコ・ルーム」が誕生した。シーグラムビルで叶わなかった展示。それが時と場所を変えて、千葉県の佐倉で実現している。ロスコの作品を専用展示室で鑑賞できるのは、ヒューストンの「ロスコ・チャペル」と、テート・モダン、そして川村記念。世界に3つだけである。


誰しもが他の展示室より声を潜めてしまう、内省を迫る空間


行列に並びながら「そんなに殺気立たなくても中は広い。満員にはならないよ」と心のなかで独りごちた。とはいえ、できれば混雑していないロスコ・ルームを体験したい。開館時間より随分早く到着できるように京成佐倉まで電車で行き、カーシェアの車を使って到着していた私が言えた義理ではないなとも思った。いつもなら、JR東京駅から出ている美術館直行のシャトルバスを使う。しかし、休館が決まってからはそのバスも満席になることもあると聞いて、それを回避しての行程だった。


開館後、他の作品には目もくれずにロスコ・ルームへと向かった。川村記念は2階建て。1階に7つの展示室、2階に4つ、合計11の展示室を持つ。それぞれにしっかりした広さをがある。1階は、基本的に年代順で鑑賞できるように展示構成がされている。順路に沿っていけば、モネやルノワールなどを鑑賞し、誰しもが美術の教科書で見るであろうレンブラントの《広つば帽をかぶった男》を体験する。


これらを体験した後、中庭を臨む細長い廊下に出る。展示室の抑えられた明るさから、出し抜けに陽光が差し込んでくる。廊下のなかほどに、庭を望むような踊り場的空間が設けられ、ベンチが備え付けられている。近くにはトイレもある。ここでいつもひと呼吸おいて、トイレを済ませる。ロスコ・ルームに入ると、どうしても長時間留まってしまうからだ。


ベンチで少しぼんやりしていると、展示室から人の話し声が漏れてきた。普段の川村記念ならそんな声はなかなか聞こえてこない。休館が決まってから入場者数が5倍になったのだから当然だ。


ベンチから立ち、廊下を進み丁字路を左に折れる。修道院の廊下を思わせる通路を進むと左手にロスコ・ルームがある。一段と細いアプローチに入ると、人がちょうど1人通れる程度の細い入口が2つ、ぽっかりと開いている。扉はない。きれいに整えられた洞窟といった雰囲気だ。


その中に一歩踏み入ると、ロスコルームの内部だ。静かで重たい空気が漂っている。どこか古い寺院の本堂に入ったような感覚があり、嫌な感じはしない。室内は七角形で、それぞれの面にロスコの作品が展示されている。床は黒みの強い板張り。古い学校の油引きの床に似ている。歩くと、コツリ、コツリと音がする。壁面はごくうすくベージュがかった白い土壁。光源が見えないように配置された電灯が、控えめに作品を照らす。うすぼんやりとした光を受けて、ロスコの作品たちが、そこにある。


ひとつの作品に目をやると、視界の端には別のロスコ作品が入ってくる。部屋のどこにいてもだ。否応なくロスコの作品、シーグラム壁画との対峙を迫られる。


川村記念のシーグラム壁画には共通の特徴がある。赤茶色がかった画面に、それより暗い色、あるいは反対に明るめの朱色の太い“輪郭線”で描かれた四角形が1つ、もしくは2つ描かれている。四角形は、画面に対してかなりの面積をカバーしている。もっとも輪郭線は絵の具を水に溶いた直後のようにあいまいな境界になっている。地色の赤茶も明確な色彩を持たず、煙を画面に閉じ込めたような雰囲気がある。


輪郭線を“窓か扉”と捉えると、赤茶の地色に霧がかった奥行きを感じることもある。反対に輪郭線を“柵や檻”と捉えると、閉じ込められた空間を感じることもある。地色の部分が、鑑賞者の前に立ちはだかる“壁”と捉えることもできる。手を差し出せばズブリと作品に入り込めそうな気もするし、ボヨンと弾かれそうでもある。そうやって作品が、鑑賞者に内省を求める。ひょっとしたらそんな生易しいものではないかもしれない。平たく言うと「作品にあてられる」という感覚が一番近い。それがロスコ・ルームでの体験である。


遡ること20年以上前、初めてロスコ・ルームを体験したとき、私は”あてられた”。作品に意識を飲み込まれて、呆然と立ち尽くしてしまったのだ。どうやって部屋を出たのかもわからず、気がつけば帰りの電車で長椅子に沈み込み、カタログを大事に抱えていた。


それ以来、あてられる怖さを抱えながらも”自分が作品をどう感じるか”を確かめたくて何度も通っている。残念ながら、今でも答えが見つかったわけではないが、確かなことは、訪れるたびに感じ方がまったく違うこと。そして、やっかいなことに、違う理由がわからないことだ。


そんな経験を、ロスコ・ルームに携わった学芸員の方に話すと、にっこり笑いながら「それはあなたが変わったからですよ」とだけ答えてくれた。


今日はどう感じるだろう―。そう思いながら目を向けると、涙がずっと止まらなかった。ロスコの作品を前にして泣いたのは初めてで、自分でも驚いた。しかし、涙の理由はやはりわからない。ただ、不思議と悪い気はしなかった。泣いているのが周囲にバレたらちょっと恥ずかしいなと思い、涙をぬぐってあたりを確認する。すると、あることに気づいた。他の展示室では鑑賞者もおしゃべりをしている光景を目にするが、この部屋は誰しもが声を潜めているのだ。程度の差はあろうが、他の鑑賞者にも何らかの変化が起こっている。それを感じてうれしくなった。


室内中央の大きな六角形のソファに腰を下ろし、作品を眺める。時々立ち上がって、それぞれの作品に正対して眺める。ロスコの作品自体か、はたまたその作品を捉える鑑賞者自身か、自分がそれだと思う対話相手とたっぷり時間を使えばいい。


余談だが、川村記念のシーグラム壁画が、マンハッタンの高級レストラン壁面に飾られなくて良かったと感じる。きっとどんな料理も味を感じなくなってしまうだろう。ロスコが作品の展示を拒んだのは、ある意味で親切心だったのかもしれない。


設立当初は倉庫用の部屋を急ごしらえで展示室にしていた


現在のロスコ・ルームは2008年に美術館の大改修が行われた際に、増築されたものだ。開館当初の1990年にあった初代のロスコルームとは異なる。前述の通り、ロスコの作品が川村記念に来ることが決まったのはオープン直前だった。すでに展示室は埋まっていて、倉庫用の部屋を改造し、ロスコ・ルームにしたのだ。“初代”の部屋は、角に出入り口の出っ張りがあり、いかにも急ごしらえだった。


そこで、美術館全体の大改修計画が持ち上がったときにロスコ・ルームの刷新も行われた。開館当初から生じていた不満。テート・モダンやロスコ・チャペルという前例、1995年から巡回したロスコ展などを経て、どうすればロスコの目指した“あるべき展示”ができるかが模索された。


専用の空間を強調するため、建物を分けることも考えられたが、現在のアプローチでつなぐ別室形式となった。床の色味、照明の色合い、入口のサイズなど細部まで模索がなされている。例えば、ロスコ・ルームの壁には角がなく、すべてR加工がされている。壁面ではっきりした境界線があるとすれば、カンバスの外周線だけだ。室内においてロスコの作品以外の情報を極端に減らすように配慮がなされている。床面積が100平米を超えると、鑑賞のノイズになる壁面排煙口を設置しなければならず、それを避けるために床面積を99平方メートルに抑えるという徹底ぶりだ。現在のロスコ・ルームは、作品を体験する空間として、突き詰めた解答のひとつだと言って間違いない。


疲れ切った後の“木漏れ日の部屋”


内省を迫られ、疲れ切った体を引きずるように順路の階段を登る。すると現れるのが“木漏れ日の部屋”と呼ばれる200展示室だ。入ると、文字通り両サイドの壁面がほぼ窓になっていて、外の森から木漏れ日が降り注いでくる。ツルツルした白い床に落ちた木の影が、ゆらゆらと揺れている。内省からの開放だ。


私の訪れた2024年の9月中旬は、企画展の西川勝人「静寂の響き」での出品作が並んでいた。大きなガラス製のほおずきが床にいくつか展示され、木漏れ日を反射、拡散させている。200展示室には、窓のない壁面に沿うようにベンチが配置されている箇所がある。そこに腰掛け、瞬間瞬間で変わる木漏れ日の様子を、呆然とながめる。ロスコルームの真上に位置する部屋で、対比的に光を感じさせる構造になっていることが面白い。


ちなみに200展示室は川村記念に“もうひとつあった専用展示室”だった。展示されていたのはバーネット・ニューマンの「アンナの光」。縦3メートル弱、横6メートル、11畳ほどの大きさがある、画面のほぼすべてが赤く塗りつぶされた作品。その1点だけが、この部屋に展示されていた。もっとも、アンナの光は2013年に103億円で海外の企業に売却されている。時を経て、作品の大半がアンナの光同様に売却されてしまうのは皮肉な類似だ。


いずれにせよ、ロスコ・ルームとは大きく方向性が異なる体験がこの展示室にある。外光によって表情を変える作品は新鮮だ。


「何度も、長く、ロスコルームで過ごしてほしい」


回廊のような廊下を抜け、ロスコ・ルームに至り、そこでの時間を経て2階の木漏れ日を目にする。この一連の道程は、佐倉にある今の川村記念にしかない体験だ。


ロスコ・ルームの改修に携わった学芸員の方に対して、率直にどうやってロスコの絵画を鑑賞すればよいかを聞いた。


「何度も、長く、ロスコルームで“過ごして”ほしい」


川村記念は2025年の3月末で休館する。もし、その後のロスコ・ルームがあるとしても、今のそれとは別物だろう。残された時間はもうあとわずかだ。



(参考文献)

ジェイムズ・E・B・ブレズリン『マーク・ロスコ伝記』木下哲夫訳、ブックエンド社、2019年(James E. B. Breslin,Mark Rothko:A Biography,United states of America,The Univercity of Chicago,1993)


『DIC川村記念美術館』(カタログ)DIC川村記念美術館、2022年


『マーク・ロスコ展』(展覧会カタログ)川村記念美術館、1995年


近藤富枝、瀧悌三、広本伸幸『ロスコ(講談社現代美術第4巻)』講談社、1993年


 

会場

DIC川村記念美術館 コレクション展示

 

・執筆者プロフィール

三枡 ケイ

慶應義塾大学文学部哲学科美学美術史専攻卒業。本当はアートや映画に興味があり、それらに関連したライティングや制作に携わりたいが、実際は企業広報物やIR支援などビジネス寄りの編集制作がメインのライター






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