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執筆者の写真これぽーと

浜松市楽器博物館:世界を演奏する、浜松で(南島興)

 ヤマハやカワイといった楽器メーカーで有名な静岡県浜松市には世界でも有数の楽器博物館がある。1995年に開館した浜松市楽器博物館。当館は世界中の楽器及び関連資料を地域や文化に偏りなく公平に蒐集し、展示することを理念としてもち、常設展では1500点ほどの資料を見ることができる。想像に難くないように、当館も開館時はヨーロッパ伝来の楽器がコレクションの大半を占めていたようだが、「世界の楽器を偏りなく平等に展示して、楽器を通して人間の知恵と感性を探る」という基本コンセプトにしたがって、2006年には国と地域を超えたグローバルな多様性のある楽器コレクションが揃えられることになった。

 簡単に美術の歴史を振り返れば、洋の東西を問わずに民族博物館と美術館のコレクションから構成された「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」展(1984年)、またそれを背景としてパリのポンピドゥーセンターで開催され、日本人美術家も参加した「大地の魔術師たち」展(1989年)のことが思い出される。なぜなら、のちにその植民地主義的な姿勢が批判されるにしても、古今東西の文物や資料と作品という区分を取り払い、「公平」に展示し、互いの関係性を主題化するという理念を強く打ち出した最初の展覧会であるからだ。この動向は90年代以降の大きな筋のひとつとして、いまに至るまで続いている。浜松市楽器博物館が明示的に打ち出す前述のコンセプトも同様の時代的な機運のなかに立ち上げられたと考えることができるだろう。

 もちろん、こうしたグローバルな視点からあらゆる楽器を蒐集するという中立的なポジションそれ自体は、浜松が楽器メーカーの日本最大の集積地である自負のもとシビックプライドの発信という意図もたぶんにあるだろう。しかし、とかく西洋への憧れが強調しがちな文化施設の展示物において、世界への行き届いた配慮が徹底されている点は、率直にいって尊敬に値するし、それによる多様性のある、見たことのない楽器たちの展示は単純に愉しい。

 愉しさは新奇の楽器を目にする驚きと喜びだけから喚起されるのではない。楽器が演奏されて、幸福な音楽が立ち現れる瞬間にいつでも立ち会うことができるというある体験の場の設計にもよっている。それは、演奏の場である。当たり前だが、美術作品と楽器の展示の最大の違いはそれぞれが作品か道具の否かの違いにある。作品はそれ自体としてすでに完成段階にあるからこそ、それは通常、作品と呼ばれる。ただし、楽器の場合には実際に展示されていると、楽器自体が確立した作品のように見えたり、装飾的な図柄が描き込まれた、それ自体が美術品としても流通していた楽器もあるけれど、基本的には楽器は演奏されてはじめてひとつの音楽作品として完成をむかえる。つまり、楽器を展示する際には、それが完成する姿を想像させる必要性があるのだ。

 一番分かりやすいのは演奏体験コーナーの存在が挙げられる。ここでは、だれでも展示されているいくつかの鍵盤楽器と弦楽器、電子ドラムを自由に演奏することができる。楽器は死んだ事物=作品とは異なり、いつでも演奏家がその楽器に触れさえすれば、作られた当時あるいはかつて演奏されたのと似た音色を奏で、そして聴かせることができる。時はいつでも蘇る。これが音楽を生み出す楽器がもっている愉しさの源である。言うまでもなく、演奏家とは、観客である私であり、あなたのことを指している。音楽に参加できることが、私とあなたを高揚させて、この楽器博物館に長居させてしまう理由なのである。

 もう一つ、楽器ではないモノたちが愉しさを演出していることも記しておこう。それは展示物の隙間隙間に並べられた、それ自身が展示物なのかはにわかには判別しがたい、いくつかの人形たちである。陶製の天使たちや行進する楽隊だったりするそれらは、一見すれば、展示空間を彩る装飾的な添え物のようにも感じられるが、その量の多さには機能を超えて、ある印象を観客にもたらす。2011年に同館で開催された「人形たちのシンフォニー」で館長の嶋和彦が書くように、楽器を演奏する人形たちは観客にとって未知の形をした楽器が実際にはどんな文化をもった人々によってどんな姿勢でどんな仕方で演奏されたいのかをイメージさせるための学びあるメディアなのである。それゆえに常設展においても、人形たちは空間の余白を埋めるために適当に配置されているわけではなく、おそらく楽器と関連づけられて展示されている。これもまた演奏という一時の完成の瞬間を観客に想像しやすくするための工夫なのだ。楽器と演奏の時という二つを合わせて展示することで、楽器博物館はただの楽器の展示室ではない愉しい空間へと姿を変えていると言えるだろう。

 1500点のほどの膨大な楽器が演奏されるそのひとときを想像させること。それは自分が弾けてしまう、という無意識の創作衝動というべきものを刺激することにほかならない。ここに展示されているのものはすべて、きっと同じ人間なのだから、ちょっとした練習をすれば、何かを音を鳴らして、誰かを愉しませることはできなくても、演奏している自分自身は満足できるほどに愉しませることができるはずだ、と。こうした楽器たちに触れ、ときに人形たちの姿を通して、美しいかもれない音の連なりを発せられる、無数の可能性がそこには見え隠れするのだ。世界中から集められた、ありとあらゆる楽器は、あなたによって、わたしによって、演奏されることができる。演奏することは愉しい。

 

会場・会期

浜松市楽器博物館 常設展

会期不明

 

・執筆者プロフィール

南島興



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